そのものの海――坂口安吾『私は海をだきしめていたい』

 昭和22年1月1日発行の『婦人公論』の文芸欄に発表され、真光社から昭和22年に刊行された『いづこへ』に収められた。

 

 筋らしい筋はなく、

 

 私はいつも神様の国へ行こうとしながら地獄の門を潜ってしまう人間だ。ともかく私は始めから地獄の門をめざして出掛ける時でも、神様の国へ行こうということを忘れたことのない甘ったるい人間だった。私は結局地獄というものに戦慄したためしはなく、馬鹿のようにたわいもなく落付いていられるくせに、神様の国を忘れることができないという人間だ。私は必ず、今に何かひどい目にヤッツケられて、叩きのめされて、甘ったるいウヌボレのグウの音も出なくなるまで、そしてほんとに足すべらして真逆様に落されてしまうと時があると考えていた。

 

 

 

と常々思っているような男が、女郎から酒場のマダムになって「私」と生活するようになった、不感症で貞操の観念のない女にある種の救いのようなものを感じる。なかでも圧倒的なのは、表題にもなっている、最後のエピソードである。二人で海岸に散歩に出る。女はものすごい荒れた海であるのに、波の引き際を待って貝殻を拾っている。それを見ていた私は、「大きな、身の丈の何倍もある波が起って、やにわに女の姿が飲み込まれ、消えてしま」う一種の幻覚を見て、その美しさに呆然とする。

 

 私は谷底のような大きな暗緑色のくぼみを深めてわき起こり、一瞬にしぶきの奥に女を隠した水のたわむれの大きさに目を打たれた。女の無感動な、ただ柔軟な肉体よりも、もっと無慈悲な、もっと無感動な、もっと柔軟な肉体を見た。海という肉体だった。

 

 

 

 そして、「私は海を抱きしめて、私の肉感が満たされてくれればよいと思った」と感じる。男は不感症の女をもてあそぶごとに女の身体が透明になってきたのを感じていたのだが、それは私の感情にも情欲にもなんら反応しないがゆえに獲得される透明さで、反応のない孤独さのなかではじめて鳥や魚や獣のように、その透明さのなかを遊弋できるように思う。この女の透明さは海の透明さに直結しているものであり、反映と戯れるナルシシズムとも、閉じられた世界とも無縁なもので、誤解すべきではないのはこれはいわゆるニュー・エイジ的な自然との一体感などとは無縁のもので、そこでは人間世界が自然の一環として組み込まれているだけで、意識や人間存在は守られているのだが、ここでの海は人間などには無関心な残酷や無慈悲といっては擬人化しすぎているただの自然で、『勉強記』などによると若い頃にがむしゃらに仏教の勉強をしたようだから、あるいはその影響はあるかもしれないが、一足飛びに悟りや涅槃に飛躍してしまう仏教とも決定的に異なっているのは、冒頭に引用した文にあるように、安吾善悪の彼岸を目指しながらも、神様の国と地獄が隣り合わせにあるような倫理的な場に常に立っていたことにある。