ブラッティに進路をとれ――ウィリアム・ピーター・ブラッティ『エクソシスト3』(1990年)

 監督のブラッティが原作、脚本もつとめている。撮影、ジェリー・フィッシャー。音楽、バリー・デ・ヴォーソン。

 

 ブラッティは第1作のフリードキンの『エクソシスト』(1973年)においても原作と脚本を書いており、1980年には『トゥインクル・トゥインクル・キラー・カーン』という、1回しか見ていないので曖昧なのだが、精神病棟を舞台にしたプラック・コメディーで、怪作というのにふさわしい作品だった記憶がある。本作のなかに、キンダーマン警部(ジョージ・C・スコット)の夢のシーンがあって、それは『エクソシスト』のダミアン神父の夢が、静かな光が強いモノトーンに近い街のなかで、施設に入れた母親がたたずんでいるという罪悪感に彩られたものであったのとは対照的に、飛行機のターミナルで、大勢の人間がいるのだが、誰もが薄気味の悪い陽気さを身にまとっているというもので、『キラー・カーン』の片鱗が見受けられるように思う。

 

 『エクソシスト』の映画は、2,3,のあと、2004年にレニー・ハーリンの『エクソシスト ビギニング』と、公開はされなかったが、実はハーリン以前に撮られていて、地味だというので会社からハーリンに監督を変えられてしまった、ポール・シュレイダー監督の『ドミニオン プリクエル』というのがあって、『ビギニング』がラズベリー賞を取るなど興行的にもさんざんだったので、復活して2005年の作品としてDVDなどで見られるようになった。どちらも同じ脚本を撮っているのだから内容的にほとんど変わらないのは当然であり、『エクソシスト』の老神父メーリンの若い頃のはなしで、「地味」なポール・シュレイダーの方がまだいいが、どちらの作品もカメラマンに名匠ヴィットリオ・ストラーロを使っているのは贅沢が過ぎる。

 

 更に2016年にフォックスのドラマ・シリーズで、『エクソシスト』が始まり、エクソシスト・ファンの私としてはとるものもとりあげず見て、第1シーズンが終わり、すでに第2シーズンがあることは決まっているらしいが、第1シーズンの中盤あたりから、ヴァチカンの法王まで巻き込んだ悪魔対人間の国際的な大決戦という大味なものになって、別に『エクソシスト』でなくてもいいじゃん、となってしまうわけで、そもそも『エクソシスト』の魅力は、医学的な検査によってはなんら異常が認められず、首が180度回り、緑のゲロを吐こうと、だからといってそれが悪魔の仕業であることになるわけではなく、悪魔だとしてもどうしてなんの変哲もない小娘にとりつく必要があるのか(特別な子供にしていないのも『エクソシスト』の素晴らしいところだ)、エクソシズムに向かうには信仰という論理の飛躍が必要となって、その信仰にしてもすでに一度悪魔と対決している老神父メーリンと、母親への罪悪感から信仰が揺らいでいるダミヤン、娘が直りさえすればいい女優である母親、さらには信仰などには無縁かもしれない観客を含めて、様々な濃淡があり、それらをひっくるめて、とりあえず悪魔というものは横に置いて、ある決意がなされたことを説得力をもって描き出すことにあって、そうなると正統な後継作品はいままでのところこの『エクソシスト3』だけにしかない。

 

 その時点ではまだ誰のものともしれない視線がかすかなあえぎ声を伴いつつゆっくりと夜の通りを進んでいく冒頭から素晴らしい。十五年前、ちょうど『エクソシスト』で描かれる出来事があったころに、残虐な連続殺人の事件があり、犯人は電気椅子で死刑になった。ところが十五年後、同じ手口の犯行が繰り返される。犯行の詳細はマスコミにも公表されていないため、当時の事件を担当していた警部は困惑する。

 

 『エクソシスト』の登場人物が思わぬ形で登場し、自分は無信仰だと公言するキンダーマン警部が、そこになにが介在するかはとりあえず置き、ある行為を選択するところまで『エクソシスト』を踏襲している。ホラー表現として斬新なものも多く、現在では当たり前に使用されていることが、これ見よがしにではなく、ごく慎ましやかに使われている。テレビ・シリーズはこの作品の延長上に進めばよかったのになあ。