流動と旋回――花田清輝『復興期の精神』

 1946年に我観社より刊行された。我観社は同年発足した真善美社の前身であり、真善美社はこの本の出版によって始まった。第二版はすでに真善美社刊となっている。収録されたエッセイのほとんどは戦前、戦中に『文化組織』に発表された。

 

 『文化組織』では「ルネッサンス的人間の探求」というテーマのもとに連作されたが、いわゆるイタリア・ルネッサンス期の人物はダ・ヴィンチマキャベリぐらいしかおらず、ソフォクレスアリストファネスの古典ギリシャの時代から、ダンテ、ヴィヨン、ルイ十一世をへて、ゴーガン、アンデルセンガロア、ポーにまで及ぶ広範囲なもので、晩年の『日本のルネッサンス人』が室町時代から安土桃山時代を扱ったものであることを思うと、結局のところ、花田清輝にとって変革期にあると自覚することは、人間の実存的な要諦のようなものであって、この自覚を失ってしまうと、これが安部公房なら棒にでもなるのだろうが、花田清輝は周到にそうした寓意化を避けているところがあって、「天体図――コペルニクス」で書かれているように、「何故か私には転向といえば、常に堂々たるコペルニクス的転向のことを指すべきであり、誰でもがする現在の転向は、断じて転向という言葉によって呼ばるべきではないような気がするのだ」といいながら、かといって二十世紀の転向者の群れを侮蔑するつもりなどはなく、二十世紀の転向が紆余曲折へた結果であるために何やら悲劇的な色彩をもっているのに反し、コペルニクスの転向は朗然とした転向であり、闘争の拒否の上に立って、隠然と行われた颯爽としないものなのだが、派手な闘争を繰り広げる現在の転向者は颯爽としているかもしれないが、「どうして颯爽とすることが立派なことなのであろう」、吠える犬は嚙みつかぬというように、闘争は逃避の一手段として採用されることもあるのだと、転じる文章に明らかなように、変革期は文章を転回させ続ける原動力に過ぎない。

 

 マルクス主義者で、ユートピアについて言及が多いのは、アメリカの批評家フレデリック・ジェイムソンと並んで、双璧をなす。このエッセイではトマス・モアも論じられているが、コロンブスユートピア物語の作者に比しているのが面白く、新大陸を目指すコロンブスの姿には「空間に対する愛情、時間に対する憎悪」が貫かれているが、時間と空間を分離するのは抽象に過ぎず、新たな空間を見いだしたと思う途端にそれは手垢にまみれ、記録され、人間化される「空間化された時間」に変じてしまうものであり、コロンブスの憎悪の対象は時間そのものを絶縁することが無理な相談である以上、むしろそうした「空間化された時間」にあり、彼の空間に対する愛情とは、「旋回し、流動する空間」、つまりは「時間化された空間」にあったのではないかと進むか所などは、歴史的に正しいかどうかはともかくコロンブスに対する新たな発見であり、ついでに花田清輝自身の文章論にもなっているのでますます面白い。