愚かさの世界――谷崎潤一郎『刺青』

 明治四十三年十一月号の「新思潮」に掲載された。短編小説。翌明治四十四年の十二月には、「麒麟」「少年」「幇間」「秘密」「象」「信西」と合わせて、『刺青』という表題で、籾山書店から刊行される。

 

 「其れはまだ人々が『愚』と云ふ貴い徳を持つて居て、世の中が今のやうに激しく軋み合はない時分であつた。殿様や若旦那の長閑な顔が曇らぬやうに、御殿女中や花魁の笑ひの種が尽きぬやうにと、饒舌を売るお茶坊主だの幇間だのと云ふ職業が、立派に存在して行けた程、世間がのんびりして居た時分であった。」こうしたときには美しいものが強者で、醜いものが弱者であり、美しさを求める結果、身体に墨を注ぎ込む刺青も盛んであった。まだ若い清吉という腕利きの刺青師がいた。奇抜な構図と妖艶な線で名を知られていた。いかにも名人気質らしく、気に入った皮膚と骨組みを持っていなければ、金を積まれても彫ろうとはしなかった。清吉の宿願は自分の気に入った女の肌を得て、そこに自分の魂を彫り込むことにあった。

 

 あるとき、清吉は深川の料理屋、平清の前を通りかかった折に、門に置かれた駕籠の御簾の陰から真っ白い女の足が出ているのに気づく。多くの皮膚を扱ってきた彼の眼をもってすると、この足こそが長年待ち望んだものであることが分かった。しかし、駕籠を数町追いかけたものの、やがて見失ってしまった。この足への思いは恋心へと変じたが、なすすべもなくその年を過ごし、翌年の春も終わろうとするころ、辰巳の馴染みの芸妓からの使いをもって見慣れぬ小娘が訪ねてきた。娘は近々自分の妹分として座敷に出るはずだと便りにはあった。清吉はこの娘こそが去年見た足の持ち主であることを見て取る。

 

 清吉は娘に二枚の絵を見せる。古代中国の暴君紂王の寵妃、末喜が欄干にもたれ、刑を受ける男の姿を見ている図と、若い女が桜の幹に身を持たせかけ、その下に累々と倒れている男たちの死体を見つめている「肥料」と題された絵である。清吉はここにお前の心が映っているはずだといい、娘も自分がそうした性分をもっていることを白状する。自分が隠そうとしていた性分を言い当てられ、不安になった娘は帰ろうとするが、清吉は麻酔剤で娘を眠らせ、娘の背中に女郎蜘蛛の刺青を彫り込んでいく。すでに自らの魂に目覚めた娘は身をゆだね、清吉は娘の第一の「肥料」になる。「折から朝日が刺青の面にさして、女の背は燦爛とした。」

 

 「愚」という徳のあった時分とは、馬鹿正直に受け取れば、江戸時代は文化・文政の町人文化が爛熟したころだともみなせるだろうが、むしろ、いくつもの演目によって作り出された長屋や隠居、与太郎のいる世界を落語国というように、仮設された、それこそ美しいものが強者であり、醜いものが弱者であるような世界であり、生活のありさまが芸術となりえた世界だといえる。

 

 刺青は、絵画や彫刻のように空間的でありながら、時間的でもあるという奇妙なかたちの芸術である。時間的とはいっても、音楽のように非具象的なものではなく、あくまで具象性を備えている。しかし、空間的、具象的でありながらも、作品だけを切り離して鑑賞することはできず、呼吸する皮膚と分かちがたく結びついたそれは、見る時間や気候、さらには刺青された人間の体調や年齢、気分によっても変化する。端的に言えば、気が乗らなければ、見せてももらえないわけである。またそれを創りだす側からいっても、自分の理想とする肌を見つけ出すこと、その人物が画布となってくれることを承認してくれること、そして長い時間にわたる苦痛に耐える体力のあることなど越えねばならない障壁が多く、いざ彫ったとしても、普段は隠されていて見ることができず、公衆の前にあらわれることは決してないだろうという美学などによっては捉えようのない非常に特殊なものなのだ。

 

 実際、私が部分的なタトゥーではなく、本格的な彫り物を見たのは、かつて通っていた銭湯で出会うことのあったおじさんくらいのもので、ただどんな事情によるものか、完成までには至らなかったもので、赤い筋がにじんだようにぼやけて、果たしてなにが描かれているのか最後までわからなかった。