空間の映画――スティーヴン・ソダーバーグ『エージェント・マロリー」(2011年)

 脚本・レム・ドプス、撮影・ピーター・アンドリュース、音楽・デヴィッド・ホームズ。主演のジーナ・カラーノは、総合格闘技の選手で、ウィキペディアによれば、アメリカのスポーツ専門雑誌『スポーツ・イラストレイテッド』で「もっともスポーツ界に影響力のある女子選手」に選ばれたこともあるという。原題のHaywireはもともと刈りとった干し草を束ねておく針金のことで、転じて混乱して、取り乱してなどの意味になることは束ねた草がほどけるとどうなるかを考えれば容易に想像がつくだろう。

 

 話はアクション映画としてはありきたりなものだといっていい。政府から仕事を請け負うこともある凄腕の女性エージェント(つまり、ジーナ・カラーノが演じるマロリー)が、ある事案を解決ししたころから命を狙われることになる。知るべきでないことまで知ってしまったのだ。

 

 ソダーバーグは、それほど関心をもって見続けていたわけではないが、私にとっては難解、というか、よくわからない監督だった。もっともヒットしたのは『オーシャンズ』のシリーズだろうが、豪華な出演者が目を楽しませてくれるとはいえ、ケイパーもの、つまり、それぞれの専門職に長じた犯罪者集団が、巨大な獲物を手に入れるというもので、そこには機械仕掛けのように正確に働き、それでも起きる不慮の出来事に対して、柔軟に対応しながら、目的に向かって進む集団の姿と、できうればあっと驚くような結末の逆転が欲しいところなのだが、三作のどれもそこまではいかなかったのではないかなあ、と曖昧になるのは、実はすべて内容をはっきり思い出せないためなのだが、これは同じく記憶は曖昧ながらも退屈だったと断言できる『ソラリス』などを考慮に入れつつ、今回面白いと感じた『エージェント・マロリー』のことを顧みると、はじめてソダーバーグのことが理解できるように思えた。

 

 ジャンル映画だけに、内容と形式があらかじめある程度決まっているので、ソダーバーグ本来の資質が変異として明瞭に浮き上がっている。思うに、ソダーバーグは物語を語ることや登場人物の感情の微妙な動きなどにはそれほど関心がなく、例えばこの映画でいうならば、閑散な通りを隔てて道の両端を歩く二人の人物、臙脂色の背景のもと画面を斜めによぎっていくエスカレーター、人っ子一人いない飛行場など、ある場面、あるいは構図を見出すことにより満足を感じるような監督なのだと思える。それもコンピューター・グラフィックスや予算をかけてできるだけこれまで見たこともない構図や映像を撮ろうとする現在の潮流とは異なり、どんどん余分なものを排除して、空間を簡潔でクールなものにしようとする姿勢が際立っていて、そのことは『トラフィック』、『コンテイジョン』等々、そしてこの映画も原題は『ヘイワイヤー』という無機質で、そっけないものだったことに端的にあらわれている。