芸と散文――石川淳『曽呂利咄』

 昭和13年、「文藝汎論」5月1日号に掲載された。短編小説である。第二次世界大戦前年の1938年の発表で、小説の舞台となっているのも、天下が一応は統一されたのだが、明に対する侵略を試み、利休を殺すなど、秀吉の誇大妄想と偏執的な部分があらわれてきて、一部の慧眼な人々にはさらなる戦乱が予感されていたころで、万事殺風景になっていた。

 お伽衆の曽呂利新左衛門も仮病を使って太閤からは遠ざかっていた。そんな折、ある夜のこと、曽呂利のもとに石田三成が訪ねてくる。頼みごとがあってのことだ。さる酒問屋において、煌々とした光のなか大盃がぷかりぷかりと宙を漂い、なみいる酒樽の酒をどくどくと注げ受けては空のかなたに飛び去ってしまうという事件が起きた、こうした怪異を放っておいては、事実無根の流言がはびこり、京の秩序が守られなくなる、その探索を曽呂利に頼もうというのだ。

 政治向きのことには容喙しないと決めている曽呂利だったが、かねて目をつけていた太閤秘蔵の狩野山楽の軸物、日の出に鶴をあしらった絵を褒美にもらえるというので気持ちが動いた。お伽衆ともなると、特別な嗅覚が働くものか、早速嵯峨野の奥に怪しげな庵を見つけ、巡礼のふりをして一献汲み交わすあいだに、かの者が源義経の一党でただ一人生死が確認されずに終わった常陸海尊であることを見破った。長生の法を習得し、各国の山々に隠棲していたらしい。発見されたからにはもはやこの国に用はなし、外国に行って切支丹の魔法でも修めることにしようと、飛行の術で飛び立てば、曽呂利の方も山楽の軸を広げ、空を飛ぶのは修験道ばかりではない、芸道の奇瑞を目にも見よ、と飛び立つが、「春とはいへ、夜更の風酔ざめの襟に沁み、はつと夢破れて起きあがつた曽呂利が大きな嚔一つ、ほい、まだ地上に生きてゐたか。」

 

 石川淳は小説や散文の方法についての批判的意識には旺盛で、短編小説はすでに形式的に行き詰っており、新たな可能性は長編にしかないと考えていた。ところで、その長編小説、決してつまらなくはないが、短編や批評に比べるとさほど読み返したくはならないのが私の正直な感想で、思うにそれはこの短編の結末の部分にも、戯画的にではあるが、あらわれているように、石川淳自身仙術程度の効能は芸の力に見いだしており、私などがこういう文章を読むとうっとりするのも芸に対する信頼が共有されているためであろう。長編小説で芸が問題になることはない。プルーストヘンリー・ジェイムズは織物を織りあげるようで、熟練した職人の技を感じるが、芝居、演芸などについていわれることの多い芸は、より身体的なもの、時節にかかわるはかなさと絡み合っていて、危機的な状況のなかで書かれたことがこの短編小説をより輝かせている。