いまだ、あるいはすでにない欲望ーーテリー・ジョーンズ『ミラクル・ニール!」(2016年)

 三つの願いという民話がある。色々とヴァリエーションはあるが、そのひとつはこうである。夫婦して真面目に働き、生活には不自由しないだけの収入をあげている肉屋があった。あるとき、貴族が乗ったきらびやかな馬車が通るのを見かけ、一度でもあんな馬車に乗ってみたいもんだ、仙女でもいれば願いを叶えてもらうのに、と願った。すると輝くばかりの仙女があらわれ、なんでも口にした三つの願いを叶えてあげようといった。どんな願いをするべきなのか、迷っているうちに、その日も終わり、暖炉で温まっているときに、おかみさんは願い事がなんでもかなうとなれば、お祝いに一メートルのソーセージでも食べたいもんだね、とふと口に出してしまい、ソーセージが宙のなかから落ちてくる。夫は三つしかない願い事をつまらぬことに使った妻に怒りをおぼえ、そんなソーセージなどお前の鼻にくっついてしまえ、と怒鳴りつけると、ソーセージが鼻から離れない、これじゃあ恥ずかしくって人前に顔もだせはしない、とソーセージが鼻から離れますようにと最後の願いを使ってしまった。

 

 この映画はこの民話のヴァリエーションであり、いかに欲望が曖昧で明確に言葉にすることができないかをうまくあらわしている。人間よりもはるかに力をもつらしい宇宙人が(もっともモンティ・パイソンの連中が声をあてているので、バカっぽいことこの上ないのだが)、地球を破壊する前に、人間という生物の本性を見るため、無作為に選んだ一人の人間に全能の力を与えることにする。選ばれたのはイギリスのしがない学校の教師(サイモン・ベッグ)であり、何か願いごとを口にし、右手を振ればなんでも実現する。しかも、三つなどと細かいことはいわずに、十日間無制限である。

 

 民話の仙女は異教的な神々の生き残りであろうが、この宇宙人にしても全能の神とは異なり、個人の内心のことまではわからない。願いははっきりと理解されるように口にされなければならない。バスに乗りたいと願えば、ボンネットの上に乗せられるし、死者が甦れと願っても、スティーブン・キングの『ペット・セメタリー』のように、死んだときのままの不気味なゾンビが動きだすだけである。アメリカの大統領になりたいと願えば、早速テロリストに襲撃される。

 

 三つであろうと無制限であろうと、欲望を十分適切に言いあらわすことは難しい。階下に気を引かれる放送局勤めの女性が住んでおり、もちろんその力をもってすれば、セックスや支配することなど容易なのだが、基本的に万能の力を得ても良心を失うことのない彼はそんなことをしても欲望が満たされないことを知る聡明さを兼ね備えている。

 

 最初にあげた民話のヴァリエーションには、なんでも望みを叶えてなるといわれた老夫婦が、お互いに心のなかでこれからも一緒に幸せに暮らせますように、と願って末長く暮らしたというものもあるが、永遠にそれが続いたとすれば、呪縛でしかないだろうが、いかにも教訓的な話らしく、それからも幸せに末長く暮らしましたとさ、で済ませている。現状の維持でしかないことも、それを言葉に出して、願いとしてしまえば、欲望となり、満足のできないものとなる。

 

 幼児期がしばしば生における理想ととられるのは、欲望がまだそれほど分化されておらず、全面的に庇護してもらえるという全能感もあるが、その裏側には言語の未発達によって、まだ欲望を表現できない、という欠如による満足もあるわけで、どちらにしろ、我々はすでに過ぎ去ったもの、あるいはいつの日か到来すべきものとしてしか欲望の満足を思い描くことができない。